順風逆風

日々吹いている風を受けて。今を大切に思いのままに綴っていきます。

初めまして。

初めまして。ブログを始めました。全国に世界に何百万人のブロガーの仲間入りしました。よろしくお願いします。

ブログって、WEBLOGの略だそうです。

WEBにLOGする。

World Wide Webに記録(LOG)する。

ということがブログの意味です。

まだ、何を書きたいがまとまらないブロガーですが、とにかく続けていきたいと思って

います。

もし気にある記事があったら、読んでみてください。

よろしくお願いします。

 

 

読書の秋

こんにちは。先日は東京で大停電がありました。今の時代では効率化を進めてきたた

め一つのラインが断ち切れた時、理屈ではわかっていても現実に大きな大きな影響が

でることを改めて感じさせる事故でした。

多少無駄でも、一つに集中させないことを意識する生活社会があってもいいのではな

いかと思います。

 

日に日に秋めいてくる時期ですが、スポーツの秋の次はやはり読書の秋についてちょ

っと見てみたいと思います。でもその前に、スポーツの秋、読書の秋、食欲の秋、芸

術の秋、行楽の秋などありますが、これら並べてみて思うのは、読書だけ単一の行動

ということです。もちろん食欲も食べるということでは一つの行いですが、普段から

食べて生活しているので、敢えての行動ではないと思えます。しかし読書は、文章や

絵を自分の目の前に置きそれを読むという極めて能動的な行動です。

それだけ大切な行いであると考えてよいでしょう。

「読書の秋」のはじまり

1918年(大正時代)の9月に読売新聞は読書の秋を掲載しました。

曰はく「秋は過ごしやすい時期であり、夜は灯りを灯して読書がよろしい・・」と。

秋の夜長には、灯りを点けて、その灯りで本を読むのがオススメですと世に語り、読

書の秋のイメージが出来上がったようです。

時代は遡って、1908年明治末期、夏目漱石が名著「三四郎」に綴ってこのように

綴っています。

「そのうち与次郎の尻が落ち付いてきて、燈火親しむべしなどという漢語さえ借用し

 て嬉しがるようになった・・・・」

ここでの漢語というのが中国 唐の時代の詩人韓愈の作った詩を指しています。

『 新涼入郊墟

  燈火稍可親

  簡編可巻舒

 時秋にして積雨霽れ、新涼郊墟に入る。

灯火稍く親しむ可く、簡編巻舒す可し。

(ときあきにしてせきうはれ、しんりょうこうきょにいる。

とうかようやくしたしむべく、かんぺんけんじょすべし。)

秋になって長雨が終わり、さわやかな涼しさが郊外の丘に来ています。

灯火の下での静かな作業に適した季節、書物を読むのにいい時期です。』

 

夏目漱石の本が当時人気があったことは言うまでもありません。読書階級の人たちは

三四郎を読んで、意味を解釈し、読書の秋が理解されてきました。

しかしまだ明治時代では生活も豊ではなく国民全体にそのような余裕はなかったはず

です。

読書週間

昭和に入って少しずつ国民の生活が豊かになっていくと読書を広めていこうという意

識も高まります。日本図書館協会が1923年に翌年11月の第1週を読書週間とし

て定めて最初の秋の読書週間が始まりました。

昭和22年(1947年)には日本出版協会が中核として様々な団体が参加して読書

週間実行委員会が設立。読書の力を使って平和な文化国家を作る目的をもって、読書

の普及に努めてきました。

1959年からは日本読書推進運動協議会が発足し、毎年秋の読書週間を主催してお

ります。毎年10月27日~11月9日(文化の日を中心にした2週間)と定められ

ています。『読書週間』が始まる10月27日は、「文字・活字文化の日」に制定さ

れております。今月下旬にやってきます。ブログを書いている人たちには楽しみな気

になる日ですね。

 

ということで、読書の秋はいろいろと歴史がある中で出来上がってきたものです。

勉強や本を読むのに適した室温は18℃から20℃あたりとか。

暑すぎず寒すぎずのこの季節に本を手にとって新たな物語に出会えるといいですね。

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秋は運動会

こんにちは。すっかり涼しくなりました。まさしく食欲も読書も最高の季節です。

秋のスポーツといえばいろいろありますが、運動会はだれもが参加したことのある

日本独特の行事ですね。ちょっと運動会の歴史を見てみましょう。

運動会の始まり

世界中で運動会の起源を探ってみると、1800年代イギリスのオックスフォード

大学で始まったとされていますが、その後なぜかヨーロッパでは広がりを見せてい

ません。

日本では、1868年(慶應4年=明治元年)に幕府がもっていた横須賀製鉄所で、

ここで働くフランス人と日本人が運動会を催したというのが定説のようです。

江戸時代末に始まったのですね。

1874年海軍兵学校で行われた「競闘遊戯会」という名でおこなわれたのが

最初の運動会だという方もいらっしゃるようです。

ハイカラ時代、東京だけでなく、北海道でも運動会が行われた記録があります。

1878年札幌農学校で集団訓練のための運動会が行われています。これ以降

運動会は「力芸会」の名で北海道の小中学校へ広がっていきました。

明治の文明開化のこの時期は武家社会から脱皮し、新しい時代の風が吹いていた

のでしょう、運動会もそんな新鮮な行事として受け入れられていったのではない

でしょうか。

1883年には東京大学運動会がイギリス人教師の指導のもと行われました。

そして1896年伊藤博文第一次内閣の文部大臣森 有礼は運動会を小中学校で

行うことを決めた文部省令を通達しました。ここが日本全国各地で運動会が実質

始められる切っ掛けではないかと思えます。

当時の小中学校といっても今のような校庭がきちっと整っていたわけではありま

せん。運動会を行うそれなりの広い場所は神社やお寺の境内あたりしかなかった

ようです。境内を使用するとなると、地元一般住民特に檀家や氏子の許可を得な

くてはならなかったはずです。許可を頂いたら、やはり檀家さんたちを見物に

招待します。やがて見るだけでなく、運動会への参加を呼びかけるようになる。

こうして運動会は地域の人たちが見物して、自分たちも参加する行事になり、

地域に定着していきました。

昭和に入って、まだ娯楽の少ない時代に家族そろって楽しめる大イベントに

なりました。親、御祖父ちゃん、お祖母ちゃんなどが朝から運動会を見物にきま

す。そしてお昼には折角家族が来ているのだからお弁当を一緒に食べ、過ごす時

間が設けられました。今の運動会の形がこうして出来上がりました。

現代の運動会

幼稚園の運動会は一番大切は仕事はなんといってもビデオ撮影のための場所取り

です。パパが朝早く起きて、開門前の幼稚園入口に長蛇の列ができることも珍し

くありません。そして演技や競技が始まると撮影会の始まりです。我が子かわい

さは昔も今も変わりませんが、なにはともあれ我が子の姿をビデオにカメラに

おさめるというのが幼稚園や小学校運動会の目的とすらなってしまっている

感があります。ちょっと寂しいです。直接目で見ることで記憶に焼き付ける

ことも大事ではないでしょうか。

リレーは花形

運動会で一番盛り上がるのはやはり最後の種目、リレー競争です。

クラスで一番駆け足の早い子が選ばれます。赤、白などチームの勝利も

掛かってくる大一番です。

アンカーにバトンが渡ると校庭は応援と歓声で最高潮に達します。ゴールの

ピストルは運動会の終わりの合図を告げます。

やがて静けさが会場を包みます。

リレーの盛り上がりに興奮するのは日本人ばかりではないのでしょうが、

リオオリンピックで男子リレー400mで銀メダルを取った時の日本人の

興奮はこの子供の頃の運動会の記憶がだれしもこころに刻み込まれている

からと思ってしまうのは私だけでしょうか。

運動会は日本人にとって大切なイベントなのです。

スポーツの秋

こんにちは。今日は日中も気温も下がって20度ちょっとで涼しい日和でした。

やっと秋めいてきました。

でも今年の10月10日は曇り空ですっきりしませんでしたね。

10日は以前、体育の日が固定されていました。東京オリンピックの開会式が

10日に行われたからです。

ではなぜ10月10日が開会式に設定されたのでしょうか?

それは過去の日本の気象データを集めたところ10月10日が晴れる確率が

非常に高いことがわかり、開会式が設定されました。

実に国民の願いは叶って、当日開会式の国立競技場は抜けるような青空でした。

この時のNHK実況北出清五郎アナウンサーの第1声は

「世界中の秋晴れを、全部東京に持ってきたような素晴らしい秋日和であります」

と高揚する日本人の気持ちを言葉にしました。

過去オリンピックが開催された月は4月、5月、7月、8月と北半球では暖かく

なるころから夏にかけて行われてました。

しかし、東京オリンピックでは初めて10月に開催され期待どおりの晴天に

恵まれました。このスポーツに最適の季節に行われた東京オリンピックの成功と

日本人のスポーツにおける国際的な活躍があり、その後日本中にスポーツの秋が

定着したようです。

 

剣道の大会

秋に行われるスポーツの大会はたくさんありますが、私は11月3日に

行われる「全日本剣道選手権大会」がこの季節にとても相応しく思えます。

日本で長く培われてきた武士道が今は剣道という道にその技と精神が

受け継がれています。

大会は、全国の都道府県での予選会を勝ち抜いた選手のトーナメント方式で

行われます。男子剣道日本一の選手を決める大会で、優勝者には天皇盃

授与され、最も栄誉ある剣道大会として位置付けられています。

大会はとても厳粛に進行され、出場選手は剣道の強さのみならず、武道の

精神に則った礼儀作法も求められています。

会場は日本武道館で、普段はコンサートやイベントでよく使われていますが

この大会を見ると、やはり武道館は武道が行われる場所だとつくづく感じます。

 

剣道の魅力

本大会はトーナメントであるため、負ければ終わりの真剣勝負。全国から

勝ち上がってきた剣の強者が日本一を目指して戦います。私は剣道の素人

ですから、勝負の決まる技がはっきりわかることはないのですが、立ち

会った二人が、静かに間を詰める動きや飛び込んで技を繰り出す瞬間の

気合い、激しく打ち合う竹刀の動き、音と他のスポーツとは違った

見るものを引き寄せるものがあります。

試合を見ていると、静と動、気と気のぶつかり、一瞬を見逃さない動きの

俊敏さなど剣道の奥深さの一面を見ることができ感動を覚えます。

 

剣道日本一

大会の長い歴史の中で、弱冠21歳5ヶ月で優勝した竹ノ内佑也(2014年

第62回)は大学3年生でした。脂の乗っている30歳から35歳ぐらい

の優勝者が一番多い。そんな中、剣道競技史上最強と言われたのが

宮崎正裕です。1990年27歳で初出場してから2001年まで実に

12年連続で出場し、優勝6回(内2連覇を2回)、準優勝2回と驚異的

戦績を残したのです。2連覇はそれまでだれも達成できなかった偉業を

初優勝の翌年も優勝してものの見事に成し遂げました。

彼を称して「平成の剣豪」、「剣道界の鉄人」、「努力の天才剣士」と

史上最強の名をとどろかせたのです。

 

近代西洋スポーツは、走る、跳ぶ、打つ、投げる、蹴るなどの運動能力と

点数の取り合いや時間の短さによるゲーム性の勝負事が多くの人々の

感動を生んできました。

日本古来から続く剣道は、西洋スポーツと生い立ち、歴史、勝負の決め方

など異なる点が多々あるので、同じに語ることはできないスポーツでは

ないでしょうか。

日本武道館でのこの大会は、日本武道の魅力を大いに感じることができる

秋のスポーツです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神無月

こんにちは。 10月に入りもう1週間が過ぎました。台風も過ぎました。

3日前は拙宅の窓にゴーゴーと強風が吹きつけておりました。

9月は日照時間が28年ぶりの少なさでした。自然を相手に生業を営む人達は

大変です。10月は何とかおだやかな天候になってもらいたいものです。

神無月とは

10月になるとテレビや雑誌などで「10月は神無月といい、全国の神様が

みんな出雲に集まる月です」と解説していることを目にすることがあります。

<神無月とはどう意味でしょう>諸説ありますのでちょっと確認してみます。

「10月」と書いて「かんなづき」と読ませる、奈良時代万葉集の歌には、

4首にでてきます。西暦700年代のこの時期は漢字の「神無月」はまだ出現

していません。

 

古今和歌集に次の2首があります。この歌は西暦915年ごろ(延喜年間)

のもの推定されています。

・神無月 時雨もいまだ ふらかくに かねてうつろふ 神なぎのもり

・神無月 時雨に濡るる もみぢ葉は ただわび人の 袂(たもと)なり

しかし当時の漢字は当て字も多く学説では「無」「の」の意味で「神の月」

という意味だったと言われています。ここで旧暦10月=「かみのつき」

が認識されていたようです。しかしこの時点でかみのつきに出雲に神様が

集まると言っているわけではありません。

 

平安時代後期西暦1135~41年に成立した藤原清輔の歌学書「奥義

書」にはこう書かれています。

「天下の神無月をば 出雲国には 神在月とも神月とも申すなり

 我朝の諸神集り給うゆえなり」

ここで初めて神在月と明言しています。

 

南北朝時代に書かれた万葉集注釈書「詞林采葉抄」には、

「そもそも、天下の神無月を出雲国には神在月とも・・・・。 わが国の諸神が

 お集まりになるためである。その神在浦に神々が来臨される時には小さい童が

 戯れに作ったような篠舟を波の上に浮かべるが、その数は数えきれないほどである。

 諸神はその浦の神在の社にお集まりになって、大社へはお参りにならないという。

 その神在社は不老山という所にいらっしゃって、神号を佐太大明神という。」

1334~6年ごろと思われるこの記述は、出雲に神が集まり、他の地は神がいない

といい、さらに神が集まるのは佐太大明神(現在の佐太神社)であるとしています。

現在の出雲大社(当時は杵築大社と呼ばれていた)に神が集まるとは伝えていない。

佐太神社では現在も500年来より引き継がれてきた神を迎える祀りが行われていま

す。

 

1330年代のほぼ同じ時期に吉田兼好は名著「徒然草」にはこうあります。

「十月を神無月と言ひて、神事に憚るべきよしは、記したるものなし。

 本文も見えず。但し当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。

 この月、万の神達、太神宮に集まり給ふなど言ふ説あれども その本説なし。

 さる事ならば、伊勢には殊に祭月とすべきに、その例もなし。十月、諸社の

 行幸、その例も多し。但し、多くは不吉の例なり」 

神無月はあるようだが、明確な根拠がない。伊勢神宮に神が集まるいるとの説も

聞いているが、その根拠が見つからないとも述べて、出雲大社自体も出てこない

のです。

 

年代に沿って「神無月」と言われるようになった記述を見てみると、

出雲の国で神在月となったもともとは10月に神様を神殿に迎える儀式が

古代からあった。これは全国どこでも行われていた。だから10月を

「神の月」、神に感謝する月であったと推察してみたいです。

平安時代には、社を宣伝するために出雲を詣でた人たちまたは「御師」と

呼ばれ、寺や神社を宣伝し各地を行き来した人によって出雲へ神が集まる

と伝え広めたのではないでしょうか。あくまで個人的解釈ですが。

いずれにしても、10月、神様の月です。自然の恵みに感謝し、家族の無事を

国の安寧を願う気持ちは二千年の時が経っても変わらない神々の祈りとなって

今も受け継がれています。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旅の終わりは善光寺

こんにちは。今人気沸騰中の堺雅人主演真田丸の故郷、上田城跡をあとにして

信州旅の最終地は善光寺を目指しました。ちょっと長い距離ではありました。

上田城から約50Km弱の道のりを一般道で約1時間半、ひたすら走りました。

絶対秘仏

長野市内にある善光寺は意外ですが、無宗派のお寺なのです。本堂内には日本最古

と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊としてこれは絶対秘仏とされていて、お寺の住

職といえども拝することができない。本尊が安置されている瑠璃壇の厨子のみを拝

することになります。

七年に一度の御開帳時には、絶対秘仏の本尊の分身として金銅阿弥陀如来及両脇侍

像が公開されています。本尊が絶対秘仏をされたのは、なんと西暦654年(白雉

5年)といわれ1350年も前からだれも拝したことがないという。

歴史の記録をたどると本尊は秘仏とされていますが、鎌倉時代の戦火時は、鎌倉八

幡宮の境内の土中に埋められたり、戦国時代には武田信玄豊臣秀吉徳川家康

と渡り、江戸時代に入って長野善光寺に安置されたようです。

本堂に入っていくと、もちろん絶対秘仏本尊を拝することはできませんが、何か

神秘的なぴーんと張り詰めた空気を感じます。

牛にひかれて善光寺

江戸時代には「一生に一度は詣れ善光寺」と言われるほど、地元地域だけでなく

江戸を始め全国各地から参拝者が訪れたようです。

「牛にひかれて善光寺参り」昔 善光寺近くに住んでいた不信人で欲の深い老婆

がさらしていた布を隣の家の牛が角に引っ掛けて走り出したのを見て、その牛を

追いかけていくうちに善光寺にたどり着き、それがきっかけで善光寺参りをする

ようになり、信心深くなり幸せに暮らしたとの言い伝えからこの諺が語られてき

ました。

 

 

国宝の本殿はその威容に圧倒されます。山門と仁王門も雄大さと穢れをしらない

造形の美しさ。さらに落ち着き払った境内の空気。参詣を終えると誰もがすがすが

しい心持になれます。

長い長いい年月、幾万の人々の願いを聞き続け、そして今も多くの信者の厚い厚い

信仰に支えられている善光寺。一生に一度は訪れたいお寺でありました。

軽井沢上田城善光寺と信州小旅行でした。

 

 

 

 

 

 

 

上田城跡へ

こんにちは。軽井沢への小旅行はうす曇りの中、上田城へと向かいました。

NHK大河ドラマ真田丸」の放映で地元の盛り上がりはいかなることになって

いるか興味深々で一路北国街道(国道18号)をひた走って行きます。

国道は下り坂

軽井沢が標高1000mもの高地であると改めて実感するのが、国道18号を

車で走ると下り坂がずっと続いていることです。軽井沢の隣の御代田町の境界

標識には標高926mの文字。ここからさらに左右に大きく曲がりを繰り返し

ながらまたまた下りが続きます。たまにジェットコースターで急降下する時の

ような一直線の急勾配に緊張させられるようなところもあり、少し感動します。

御代田町を抜けると小諸市に入ります。リンゴのふる里と呼び名があるほど

りんごの生産が盛んです。市の中心を緩やかな清流の千曲川が流れています。

次は東御市(とうみし)です。あまり聞きなれない市名ですが、それもその

はずで、2004年の合併でできた新しい市なのです。でも東御市には意外

と知られていない特産品があるのです。それはくるみです。長野県は全国一

のくるみの産地で、県下では東御市が一大生産地なのです。くるみの生産は

大正時代に遡り、大正天皇即位を祈念してくるみの木が植樹され、昭和に

入って生産方法、品種改良が加えられ、東御の特産品となっていったのです。

上田市カントリーサイン上田城。国道の標識にはお城のデザインが施され、

ここで標高は499mとかなり下界におりてきました。上田市内はそれほど

勾配はなく平坦は道がつづきます。国道からJR上田駅を目標に左に折れ、

鉄道の高架をくぐりさらに右に曲がると上田城跡が見えてきました。

上田城跡の賑わい

上田城は北側を山々に囲まれ、南には千曲川が横たわり自然の要塞に造られた

平城です。上田城の歴史物語は、大河ドラマのブームもあり今年になって知った

方も、以前からの真田ファンもおられるのでここでは割愛でよろしいでしょう。

それにつけても、観光客の人の多さに驚かされます。今年は大河ドラマが終わる

までに上田城を見ておかなければと思ってきている人がどれだけいるかわかり

ませんが、年配の人だけではなく、若い女子も結構おりました。

真田氏は関ケ原の戦いや大阪夏の陣、冬の陣での多くの武勇が江戸時代に入って

芝居や講談、本などで取り上げられ、広く世間に知られ、英雄として庶民の人気

ものになったようです。今は本丸の天守閣などはなく、本丸南櫓と東虎口櫓門と

西櫓門が残っているだけです。本丸跡には松や樫の木が天高くそびえています。

門をくぐると、真田神社があり真田氏と仙石氏さらに松平氏の全上田城主が祀ら

れています。

神社の参道南側脇には、上田城創建当時に植えられたされる樹齢400年の杉の

巨木の切株が残されています。切株が残された杉の木が上田城の凄絶な歴史を

一人見つめてきたのだろうかと思いに耽りながら、上田城をあとにしました。