順風逆風

日々吹いている風を受けて。今を大切に思いのままに綴っていきます。

駅前の落葉

こんにちは。駅前での光景です。

落葉の歩道

駅の改札をとおり抜けると、傘をカバンが取り出し、黒い生地を広げた歩き出した。

駅前にはお決まりのロータリーが中央に噴水のある人口池を取り囲んでいる。

赤茶色のレンガが敷き詰められた歩道も車道に沿っていて、そこにはプラタナス

街路樹が並び立っている。街路樹の葉は、秋の到来を奏でるかのように赤や黄色に

色づき、その葉が歩道に重なっている。夜空には目を凝らさなくてもうっすらと

見えるどんよりとした雨雲が漂い、冷たい雨が歩道の枯葉を濡らしている。

それほど夜半ではないのに、人通りは少ない。家路の方角と反対回りへ足を歩み

だしていた。ふと黒い生地が切れる視界が通る少し先に、すらりと伸びたジーンズに

包まれた少女の足が見えた。傘を上げ視野を広げると黒髪をポニーテールに

束ねた少女が足元を見つめている。白いスニーカーを交互に動かし、さらにつま先

立ちをしたり、クロスしたりして静かにリズムをとる。

こちらの視線には気づかない。母親か誰かが駅に車で迎えるのを待っているようだ。

少女は大きなアクションで手を広げたり、回転したりはしない。ただリズムをとり

足を動かしている。思いのほか立ち止まり見入る。駅のロータリーに、電車と同じ

会社のバスが終点の停留所に向かって入ってきた。バスのヘッドライトが歩道の落

葉を照らし、そして少女の顔に光が当たった。少女はふと顔を上げた。

視線が合うと一瞬の間でこちらを見つめ、さらに少しはにかんだ笑顔が浮かんだ。

でもすぐにこちらに興味がなさそうにまた足元に視線を置く。つま先立ちしそうに

なりながらリズムをとり、雨に濡れた落葉の上に足を交互に動かしている。

少女の前をとおり過ぎる。ちょっとだけ視線があった。少女は紅い頬にはにかんだ

微笑みを返してくれた。冷たい雨が風に踊って降りかかってきた。

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百舌が枯れ木で鳴いている

こんにちは。明日はスーパームーンということらしいのですが、本日は雲が薄く

掛かって、朧月夜のようでした。深夜でも月は見えますか?

先日ブログでモズの写真がアップされていました。とても綺麗に撮れてましたの

で百舌をじっと見入ってしまいました。百舌というとふと小学校の頃に先生が

歌って教えてくれた歌を思い出しました。

百舌が枯れ木で

 もずが枯木に鳴いている
 おいらは藁をたたいてる
 わたびき車はおばあさん
 こっとん水車も回ってる

 みんな去年と同じだよ
 けれども足ん無(ね)えものがある
 兄(あん)さの薪割る音が無(ね)え
 バッサリ薪割る音が無(ね)え

 兄(あん)さは満州へ行っただよ
 鉄砲(てっぽ)が涙で光っただ
 百舌と寒くも泣くでねえ
 兄(あん)さはもっと寒いだぞ

とこんな詩が綴られています。歌詞に物悲しさがありますね。この歌は第二次

世界大戦時に反戦歌として作らたからです。茨城県の民謡とてして、戦時中、

兄を兵隊としてとられた家族が、やるせなさと怒りを内に込めて歌い、広まり

ました。詩は昭和10年10月にサトウハチローが「僕らの詩集」(講談社)に発表

したもので当時のタイトルは「百舌よ泣くな」でした。一方、曲は小学校の音楽

教師だった徳富繁が昭和13年3月18日に作っています。

昭和初期の戦時においては全国各地に戦地へ出兵した若い息子たちを思う家族が

兵隊と同じ数だけいました。その思いはただ待ち焦がれるだけではなく、時に

戦争に、政府に対し怒りを持つことになっていきました。言論統制下の世の中で

は公の場で思いを語ることはできず、「百舌が枯れ木で」といった歌に思いを託

すことしかなかったのでしょう。何時の時代も本音を語りあえる世の中であって

ほしいものです。

秋も深まると百舌はキィーキィーと澄み切った空に甲高い鳴き声を発します。

鳴き声は戦地から帰らない息子への思いを嘆く声に家族には聞こえたのかもしれ

ません。

  子を思い 藁をたたいて 鵙の声

秋も深まってきました。

 

 

ゴッホと日本

こんにちは。木々の緑が赤く黄く染まってきました。紅葉前線なる言葉があります。

モミジやイチョウなど木々の紅葉について、日本の北から南へ葉が順次色づいていく

状態を、前線にたとえた言い方です。森や山が色づくことを一つの自然現象として

捉えそれを待つ楽しみを生活に取り入れている日本人の特異な感性が表れている言葉

ではないでしょうか。

ゴッホについて続けてみます。

日本に憧れを抱いていたゴッホ

日本人が画家ゴッホを一番好きな画家としてあげていますが、実はゴッホもかつて

日本に強い憧れを持っていたことをご存知でしょうか。

ビンセント・ヴァン・ゴッホは画家でありましたが同時に手紙をたくさん書き残して

おり、その文章がとても美しく、時に哲学的表現であったり思いのすべてを手紙に

綴っています。これらの手紙の中で、日本の美に対する書簡がいくつか残っています。

ゴッホは浮世絵や日本の芸術品、小説『お菊さん』などを通し、日本を知ることと

なります。そこで日本の美に触れそして日本を愛していくようななりました。

作品においても『ムスメ(娘)』や髪を短くした自画像には『ボウズ(僧侶の意)』

と、日本の言葉で作品名をつけ、その心情を手紙におさめています。

ゴッホが日本について書いた手紙の一部を見てみましょう。

1888年、画家エミール・ベルナールに宛てた手紙

「親愛なるベルナール、君に手紙を約束した手前、僕はまず次のことから筆をすすめ

よう。清く澄んだ大気、明るい色の効果という点で、アルルはまるで日本だ!夢のよ

うだ。水の流れが景色のなかに美しいエメラルドとゆたかな青の筋をつけている。

大地を青く浮かび上がらせる淡いオレンジ色の夕焼け…」と。

「僕たちは日本の絵を愛し、その影響を受けている。印象派の画家はみなそうだ。

それならどうして日本へ、つまり日本のような南仏へ行かずにおられようか、影ひと

つない麦畑で、真昼の照りつける太陽を浴びて仕事をしているが、それでもセミのよ

うにご機嫌だ。まるで絵を描く機関車みたいに僕は爆進しているんだ」。

また弟テオに宛てた手紙には

「そして将来、日本人が日本でしたことをこの美しい土地でやるほかの芸術家が現わ

れてくることだろう。ここの自然がいつまでも好きなことは今後も変るまい、それは

まるで日本美術のようなもので、一度好きになると決して飽きない。」

「日本の絵が大好きで、その影響を受け、それはすべての印象派画家たちにも共通な

のに、日本へ行こうとはしない、つまり、日本に似ている南仏に。決論として、新し

い芸術の将来は南仏にあるようだ。君が当地にしばらく滞在できるとうれしい、君は

それをすぐ感じとり、ものの見方が変って、もっと日本的な眼でものをみたり、色彩

も違って感じるようになる。」

さらにこう綴っています。

「日本人は素描をするのが速い、非常に速い、まるで稲妻のようだ、それは神経がこ

まかく、感覚が素直なためだ。」

 

ゴッホがいかに日本を憧れ、愛していたかがこれらの手紙から強烈に伝わってきます。

37歳の若さでこの世を去ってから120年余が経った今、ゴッホが愛した日本の多

くの人たちが彼をこよなく愛している。

天国から見つめるゴッホにはきっと優しい微笑みが浮かんでいることでしょう。

 

 

 

絵画鑑賞

こんにちは。夜になって冷たい雨がおちてきました。昼間も冷たい風がビュービュー。

それでも街中は意外とコート着ている人が少ない。全身を包みこむようなコートを着

ている人はあまり見かけませんね。ちょっと流行らないのでしょうか。

画家ゴッホのひまわり

日本人が好きな画家と聞かれるとどのアンケート調査の結果を見ても一番人気は、

フィンセント・ファン・ゴッホ」となっています。そしてお気に入りの絵はみな

さん「ひまわり」となります。

あの力強いタッチのひまわりの花は見る人に鮮烈な印象をあたえるのでしょう。

この「ひまわり」は複数存在していて、ゴッホが1988年8月~1989年1月ご

ろにかけて7点描いています。パリで花瓶に挿されていない構図を含めると11点と

も12点ともいわれています。それも絵によってひまわりの本数が異なり3本、5本

12本、15本と描かれています。ゴッホはよほどこのひまわりのモチーフが好き

だったのかはたまた描いて描いてもさらにいい絵を求めて描いたのか今となっては謎

に包まれています。

このうち2番目の作品とされる「ひまわり」を1920年日本人の実業家山本顧彌太氏が

武者小路実篤の依頼により、現在の価格で約2億円で購入しました。翌年芸術展覧会

にて「ゴッホのひまわり」として公開され大きな反響がありました。

残念ながらこの「ひまわり」は第二次世界大戦で日本の地で焼失してしまいした。

 

5番目の作品「ひまわり」は15本のひまわりが花瓶に入った構図です。この作品を

1987年安田火災海上(現・損害保険ジャパン日本興亜)が3992万1750ドル(当時の

レートで約58億円)で購入し大きな話題となりました。この5番目の作品「ひまわり」

は、現在東京の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で鑑賞することができます。

日本人がゴッホ好きだからなのか、「ひまわり」が2品も日本持ち込まれて日本人が

「ひまわり」を好きになったのかはよくわかりませんが、いずれにしても日本での初

公開から90年以上たった今でもゴッホの人気が衰えることはありません。

縦92Cm×73cmの大カンバス一杯に描かれた鮮やかな黄色のひまわりの花は時を

超えて人々を魅了してやみません。

 

芸術の秋

こんにちは。北風が強くて12月の並の寒さになりました。みなさん風邪を召しません

よう気をつけましょう。秋をとおり越して冬になりそうですが、やっぱりもう少し秋を

楽しみたいですね。

芸術の秋という言葉があります。気候の温度や過ごしやすさから言えば春だって芸術を

楽しむことはできますよね。どうして秋なのでしょうか。見てみましょう。

展覧会の秋

芸術の秋は、美術の秋というフレーズが1918年に雑誌「新潮」で使われたものが変化

してこの言葉できあがったいわれています。もうひとつ言えば1918年の同じ年に

読売新聞が読書の秋をいう言葉を使っていますのでその影響もあるかもしれません。

また芸術祭という言葉が俳句の季語にあり、季節は秋となっています。

毎年11月3日前後して行われる文化庁主催の諸芸術の祭典が1946年(昭和21)に始

まります。演劇・映画・放送・音楽・舞踊・大衆芸能など広範囲にわたり,すぐれた

個人・団体に芸術祭賞,芸術祭奨励賞が贈られるのです。この芸術祭賞が秋に行われ

るので、芸術祭は秋の季語となり、芸術の秋も浸透してきたのではないでしょうか。

また二科展、日展院展はすべて、秋に開催されています。

各地の美術館も秋には特別企画展を催します。2016年秋に開催された東京都美術館

の「モネ展」は実に70万人の来場者があり、近年の中では大好評の展覧会でありまし

た。世界的名画を直接、生で見ることができるのは、本当に一生に一度しかないかもし

れません。そんな思いで絵の前に立つと絵から湧き出るエネルギーを感じます。

画家のこの絵を描いた時の思い、感情がカンバスに凝縮されています。

時を忘れて、絵を鑑賞し、作家の思いに耽る。

やっぱり秋なのですね。

 

続々・秋の公孫樹

こんにちは。夕方から雨が降ってきました。晩秋の雨は他の季節にはない冷たさと

寂しさがあるように思えます。雨に濡れて路上に重なる落葉もまた秋ならではの風景

でしょう。イチョウのことをみてきましたが、最後にもう1話してみます。

平和の象徴・被爆樹木

広島や長崎では、70年前原子爆弾に被爆し回りが焼き尽くされた中、その後芽を吹

いて今も生きている木々があります。「被爆樹木」と呼ばれています。

イチョウだけではなく、ヤナギ、プラタナス、クロガネモチなどがあり今も緑の葉を

いっぱい持ち生き続けています。長崎では大クスノキが有名です。およそ、何千℃と

いわれる高熱線を浴びてこの世の生物はすべて消滅させてしまい、当時70年は生命

は宿らないだろうと言われた原爆投下地に翌年新たな芽を吹き返すイチョウの生命力

に地元の人たちはいかに勇気づけらたことでしょう。

このイチョウが平和の象徴として2016年10月に海外に飛びました。ジュネーブ

国連欧州本部にある庭園に広島への原爆投下で被爆したイチョウの種から育てられ

た苗木の植樹されたのです。苗木は5月にジュネーブでの国連軍縮会合に平和首長

会議会長として出席した松井一実広島市長が、国連側に贈呈しました。植樹に参加し

潘基文事務総長は、演説で「この美しい苗木は、立ち直る力と平和の象徴だ」と

強調し、核兵器のない世界の実現に向けた各国の強い結束を表す木に育ってほしいと

の願いを語りました。

困難にもめげず生きることの大切さと生命力の尊さを被爆イチョウは教えてくれて

います。

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続・秋の公孫樹

こんにちは。今日は一段と冷え込んでいますと朝の天気予報が伝えています。日に日

に冬が近づいています。もう駅に続く街路樹のイチョウは銀杏が落ちきってしまった

感じです。深まりゆく秋の中でイチョウの話をもう少ししてみたいと思います。

東京のイチョウ

イチョウの木がなぜ東京の街路樹に多いのか。イチョウの木の表面は硬いコルク層に

厚くおおわれて、気候の変化や自然災害に耐えられるようにできています。江戸時代

の大火に何度も見舞われた江戸市中には火除け、つまり延焼を防ぐために様々な場所

にイチョウの木が植えられました。特に一定の敷地を持った多くの神社仏閣の境内に

植えられました。それが今では大きなイチョウに育ち秋には美しい姿を見ることがで

きるのです。大正時代に起こった関東大震災では、火災が広がる中、浅草・浅草寺

境内のイチョウが水を吹き、火を防いだとの言い伝えがあります。また第二次世界大

戦で街中焼け野原となった都内で一度は焼けた後に芽が出て生き残ったイチョウがあ

ります。その中の一本は、千代田区北の丸公園の武道館の駐車場入口に、根元が立派

な石垣に囲まれて残っているイチョウです。樹齢100年はゆうに超えており歴史を

見つめてきました。

東京都が「都の木」を選定するとき、東京の木選定委員会で決定した三種の候補の木

(ケヤキ、イチョウ、ソメイヨシノ)について住民の一般投票を行いました。投票の結

果は、イチョウ7,919(49%)、ケヤキ5,153(32%)、ソメイヨシノ3,032(19%)で、

委員の大多数はケヤキに賛成でしたが、都民投票のとおりイチョウに決定しました。

昭和41年11月14日東京都の木として発表しました。ちなみにイチョウを都道府県の木

としているのは他に神奈川県、大阪府と大都市がある地域なのが意外な感じです。

いかに多くの市民に親しまれてきた樹木であるかがわかります。

詩情溢れる黄葉のイチョウ

明治の情熱的歌人与謝野晶子は、歌集「恋衣」に

   金色の 小さき鳥のかたちして 銀杏ちるなり 夕日の丘に

と詠っています。影が長く伸びた秋の夕暮れ、陽があたり黄金色に染まったイチョウ

の木からはらはらと葉が一枚、一枚と緩やかに落ちていく光景がとても美しく表現さ

れています。また文豪夏目漱石

   鐘つけば 銀杏ちるなり 建長寺

と立ち寄ったお寺の一コマを見事に捉えています。この漱石の句は、正岡子規の有名

な俳句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の下敷きになった句でもあります。

時代を大きく遡って古代にイチョウの存在があったのかと調べてみると、万葉集や古

今和歌集にはイチョウを詠んだ歌はないという説が一般的に認めらているようです。

つまり、万葉の時代にイチョウはなかったというのです。が実は万葉集には「黄葉」

という文字で詠まれている和歌は40首余りあります。これをどう見るかですね。

これは紅く色づいた葉を指している。中世の奈良時代から平安時代においてはそのよ

うな解釈が一般説です。が私はちょっと反対の意見で、奈良時代にもイチョウの木が

そこかしこにあり、秋に黄金色に色づく木々を愛でていたと思われます。なぜ平安時

代にイチョウの記述がないのか。それは都が京都へ移ったため、土地柄イチョウの木

は少なく、他の赤く染まる木々を鑑賞することが流行となったのではないでしょうか。

これだけ美しく、丈夫な生命力のあるイチョウを万葉の人たちもきっと崇めていたと

思います。

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今イチョウの並木路を歩くとイチョウの葉の落ちる音がかさかさと耳に届きます。

 影法師 銀杏の葉踏みしめ 家路つく

秋の風景でした。